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あいすまん

あいすまん

空の響2003.6.28

ライブレポ
ソラノヒビキ
2003年6月28日(Groove・浦添市)


ライブは、正直言って行くたびに胸クソ悪くなる。まず聴衆のマナーが悪い。10代から20代前半のお子様ばかり集まっているのだから当然なのかもしれないが、腹立つ。酔っ払って人にぶつかるな。密室で煙草を吸うな。ジュースのしぶきを人に飛ばすな。ライブハウスにも腹が立つ。1時間半も開演を遅らせるというのは一体どういう了見か。チャージ1800円でワンドリンク強制500円というのはぼったくりというのではないのか。どんなプロが演奏するのか。客が多いわけでもないのに椅子がないのはなぜか。そして出演者の側にも腹は立つ。準備に一体何十分かけるつもりか。演奏時間より準備時間の方が長いなんてのが当たり前とはエンターテイメントとして欠陥ではないのか。そんなに機材を運び込んで全部使えるのか。お前がその機材にかけた金額に見合うぐらいの新しいものをお前は見せてくれるのか。いっぱい練習していっぱいライブして、バンドらしくなって満足か。洗練されたつまらない曲をやっているお前らに一体何が変えられるのか。
こういった甘ダルい状況が許されている背景には音楽界全体の閉塞状況が関与していないとはいえないだろう。安易なメロディーに切り貼りした歌詞をのせた「新曲」という名のなつメロが粗製乱発される。どこかで聞いたメロディーに意味をなさない日本語が乗っているから、聴衆やCD購買層の低年齢化が進む。逆に言えば、音楽が子供だましでしかなくなっているということだ。若者は安易に音楽を聞き、安易に音楽を始め、安易に音楽に貢ぐのだ。音楽界で動く巨額の資金は一体誰の懐に収まっているのだろうか。

 そんな胸クソ悪い音楽界に対する解答、とまではいかないかもしれないが、ひとつのヒントを提示しているといえるのが、ソラノヒビキではないだろうか。彼ら四人の音を体験するとき、わたしにはそれが、古い秩序が音を立てて崩れていくように聞こえてくる。
 ライブハウスの照明をすべて落とし、闇の中で「お待たせしました、空の響です。」とタムラケンジの一言。機材を操作する際のペンライトのみ、真っ暗な中、演奏が始まる。新曲。打ち込みの重低音に重なる単発のギターの音。スライドは夕焼け前の空に伸びる飛行機雲。冒頭は夕暮れの倦怠感やノスタルジーを描くような、いつものソラノヒビキ。
 しかし中盤、まずキーボード、そしてギターの音が消え、かすかな重低音だけを残し、ほぼ無音に。スライドも消え、聴衆の視覚も聴覚も奪われたと思った矢先、ギターの歪んだ爆音。打ち込みの爆音。雪崩のように様々な爆音が幾重にも重なり、それぞれが有機的に絡み合い始める。一昔前のイギリスのゴア・トランスユニット、JUNO REACTORを思わせる「音がめくれていく感じ」。同時にスライドはネットの向こうに弱々しく光る太陽、という意味深長な情景を映しだす。曲調のあまりの変化に、とまどう聴衆。大丈夫なのかと訝る客。理解不能といわんばかりに吹き出す客。目の前の現象に釘付けになる客。この聴衆の戸惑いこそ、ソラノヒビキが既存の「音楽」という概念を、新たな秩序を構築することによって解体していることのあらわれだ。単なる解体ならパロディーであり、それなら聴衆は慣れっこだから笑いこそすれ、戸惑いはしないだろう。既存の流れの上になされる構築なら、期待通りなのだから戸惑うはずはない。現代音楽の常套手段である切り貼りの再利用で不感症にされた一般的な聴衆は、破壊と構築が同時に行われる瞬間(芸術なら当たり前のことなのだが)を目の当たりにして、戸惑うのだ。ソラノヒビキの構築は解体と同居する。旧来の流れの上に新たな要素を加味していく類いの構築ではないのは、今の状況ではそれは音楽界の腐敗に荷担することにしかならないからだ。今回のライブで披露したのは新曲のみだったが、それだけで充分ソラノヒビキのソラノヒビキたる所以が示せたのではないかと思う。このような試みが支持を得れば、旧態依然で演る側も演らせる側も聞く側も危機意識を持たないまま心中してしまいかねない音楽界に対して、明確な危機意識と怒りをこめたアンチテーゼとして機能することと思う。

だから先述したような胸クソ悪い聴衆は、劣悪な自称「新曲」を聞くためにお金を払うのをやめるべきだ。この不況時に、ジャンルを腐敗させる因子に行う投資というのはいかに無駄なものか自覚すべきだ。胸クソ悪い音楽関係者は、ジャンル自体を消費してしまう前に実験的な試みを行う若者を歓迎し、拾い上げていく体制を築くべきだ。そして胸クソ悪い音楽かぶれの若者はいち早く自分を見つめなおし、音楽を辞めたほうが身のためだ。人生の軌道修正がきかない年齢まで達してしまうと目も当てられない。閉塞状況を打ち破ろうとする試みを、若い世代がやらずして一体誰がやるのか。逆に言えば、この閉塞状況下に音楽を始めようとする者が新しい試みをせずして、音楽をやる意味はないということなのだ。

文:宮城隆尋



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